日常はプラス思考が良い

言いたい結論は、お金が関わることはマイナスが必ず存在するので批判的でマイナス思考でも良い
だがお金が関わらない自分自身の思考については、プラス思考の方が良い

日常の中でマイナス思考だと生きる上での満足感が大幅に減る
満足感が低い状態だとストレスが溜まりやすい
ストレスが溜まることで物事の視点が批判的になりやすい
物事を否定しすぎると視野が狭くなる
視野が狭くなることでそこから抜け出すことが難しくなる悪循環に陥る

悪循環に陥ると自信も失い始める
自信を失うことで行動する機会も減る
行動する機会が減ることで経験も少なくなる
経験が少なくなることで、他者と比較してしまった場合劣る場合が多い

そもそも他者と比較すること事態が不毛である
経験をしたことがある場合と経験がない場合と比べれば0(無)と1(有)でできることが違って当然だ
むしろ経験がないのに経験があるものとすぐに同じ以上なことができると思うのは、侮辱に等しい
しかし視野が狭くなっているので気づけない
視野が狭くなることで成長して変化する機会も逃すことが増える

ただでさえお金が関わることにマイナスを意識する必要があるのに自分自身の自由な思考までマイナス思考一色に染めてしまってもいいのだろうか?

そもそもプラス思考とは、なんだろうか
…物事を肯定的に見ることができるかどうかだろうか?
現実を正確に捉えて受け入れた上で学びを得られるものだろうか?
…少なくとも現実逃避のために無理やり肯定的に見るのは、違うだろう
悪い結果も正確にとらえず学習しないで愚行を繰り返すこともプラス思考と言わないだろう

私の考えでは、物事を正確に捉えて、良いことも悪いことも受け入れて、良かったことを素直に喜び、悪かったことも次に繋がるための経験だと肯定的に考えて、経験を無駄にしないでモチベーションを日々少しずつ高めていけるのがプラス思考だと考えている
…悪いことを肯定的に見ることでストレスの軽減させ、次の行動に移れるようにすることができる
現実逃避と違うところは、受け入れることで経験を積み重ねることができる点か
私なりのプラス思考で重要なことは、経験を無駄にしないで次への行動を素早く行うためものだということ
間違ってもお金が関わることに関しては、そのまま適用しないように

応用してプラス思考を組み合わせるのは、良いだろう
だがお金が関わることに関しては、必ず厳しく思案することをするべきである
…ちゃんと考えた上で金銭や時間などの損失を受け入れられるのならプラス思考をそのまま適用するのもありではある
本当にしっかりと考えた上でだが

…実際、お金に関することをしっかりしていれば、世の中良いことが多いと感じる
素直な気持ちで色々しっかりと見ることができれば、違和感にも気づきやすいから危険からも逃れやすく(対処しやすく)なる
……自分自身本来の思考と他者の思考が入り混じっていることにも気づけたからな…
まあ、人を参考にするならまともな人だとちゃんと確認がとれてから参考にしたほうが良い
ネガティブな人の意見を参考にしたところでネガティブな人と同じになってしまうからだ

言葉とは、その人が持ち合わせている要素しか言葉にできない
知識は、あるだけでも言葉にできるが…
知識を使いこなせていればその人の言葉である
知識を使いこなせていないのであれば他者の言葉であると言えるだろう

…別に他者の言葉が悪いのではない
新しく知識を得て成長しようとすることはとても良いことだ
だが結局知識を使うのは、自分自身だ
自分自身で考えた上でその考えに至るのが大事なのだ
あくまでも他者の言葉は、見本なのだ

…たまに答えを言ってくれる人は、いる
だがそのまま受け取って自分自身の力にできる言葉は、本当に珍しい
だからあてには、しないことだ
もし、そんな人に会えたら大切にしたほうが良いだろう
人の縁は、大切なものだ
良い出会いばかりではないかもしれないが、良いことも悪いことも経験として積み重ねて成長することができる
経験が無駄になるかは、本人の考え方次第なのだ

期待しないほうが良いというけれども

新しいことを始めると少しながら期待をする
期待しないほうが良いとよく言われるし、それが最適解とされる
だが、少しも期待しないで行動なんてできるのだろうか

確かに行動が終わってしまえばそれ以上動く必要はない
しかしその行動に移るまで望みが何もないのだろうか
始まりは、欲からくるものではないのか

できることをする
軌道に乗りさえすればやることがわかる
だから次々に行動に移ればよい
わかっていればできる
最初からわかっていることなんてないけれども

…期待しないという言葉を使うのは、行動がどのようになるか経験しているからだせる言葉
期待をして、期待を裏切られた経験は、確かに振り返ると多くある
期待をしなくなった
そうすると物事を受け入れやすくなった
そして想定外という事態も楽しむ余裕がでてきた
見慣れた場所で見慣れた行動
安心感がある
何をすればいいのか明白である
だが、新しいことに取り組めなくなった

専門的なスキルは、古いままでは時代の流れについていくことが難しいため新しいことに取り組む必要がある
だが、人生それだけではない
人それぞれの願望がある
…私の場合は、今のところ興味が少しでもでたことを取り組み経験したい

しかし、経験を重ねることで願望も変わるだろう
変わったとき、何をすればいいのかわかるものばかりではない
何の期待できないことが願望になるのだろうか

…与えられた願望には、私は期待しない
私からでてきた願望でないのなら、私から行動するための気力がだせると期待できない
だが、私からでてきた願望には、期待する
なぜなら自分にあるものが分かっているから
この期待は、外部に与えられた期待ではないと確信をもっているから
どう転んでも私は、経験を得て成長することができるから

今の自分が好きだから

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…敵となった時に一番厄介な敵は、自分自身
今の自分が嫌いだと意識がある間、最初から最後まで敵にすることになる
自身に批判的な言葉を自分自身が向けた場合は、どうすればいいのか
私は、批判的な言葉を肯定的に見るようにした

なぜなら、自分が意識を向けているものにしかその言葉がでてこないからだ
そして、そもそもその批判的な自分は、大事な自分が持つ能力そのものだ
…私の考えでは、もともとは、小さい頃から持っていた能力だ
それが、ある時上手く循環しなくなった
私の場合、良くあろうとし続けて、批判的な言葉をよしとしなかった
よくある良い言葉や優れた者の規範
与えられた善悪の概念
…これは、私が人の影響をとても受けやすい性質だったのもある
自分と関わりを持つ人達は、みんな大事なことを教えてくれたし、学ばせてもらった

結局のところ、自分が持った疑問は、自分で解決できる
けれど、誰かに与えられた疑問は、一度詰まってしまうとずっと詰まったままだ
その詰まった積み重ねが思考の循環を徐々に破綻させて循環できなくなる
その循環が破綻しか結果、批判的な言葉を使う自分自身となる

もともとの批判的な言葉を自身をかけてくる自分自身の役割は何なのだろうか
私の考えでは、自身が持った考えはどんなものか知るための手助けするものだと思っている
対象の物事の比較、対象の物事の物差し
そう考えると、批判的な自分自身を受け入れられるようになった
すると、自身を批判的な言葉で責める自分は、いなくなった

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私が自分の考えと他者の考えが混ざってしまった時の思考の分離方法
および思考の毒抜き

…ここに至るまで、今持つこの考えは自分が生み出したものか?
または、誰かに言われて持ったものか?
どのぐらいの割合で自分が生み出したものか?
(なんとなくの適当な割合でいい。本当に適当でいい)
何の出来事がこの考えを持ったのだろう?
(自分が生み出した割合に対してどんな風に生まれたのか思い出して考える)
この考えは、自分にとって有益なものか?
苦しみを生み出していないか?
(有益だとしても苦しみを生み出しているかどうかが重要)

もし、誰かに言われて持ったものが苦しみを生み出すならば、さっさと捨ててしまったほうが良い
そして自分が生み出したものならば、出来事を振り返り、自分を許してやろう
自分を許すことができないと、今の自分を受け入れることは、できない
今の自分を受け入れられないと、自分のことが好きということが、上辺だけとなる
…それだと、自分自身に対する自分の批判的な言葉は、止まらない

結局、疑問を解決できなかったから過去の記憶が苦しみを生むのだと思う
他者のもたらす疑問を解決することは、やはり自分が持った疑問を解決するより難しい
自分が持った疑問は、解決の手段が自分で持っていることが多いし、自分で答えを決めることができる

しかし、他者が与える疑問は、すぐに解決できない場合、自分で解決する手段を持っていることがほとんどない
だから、誰かの力が必要になる場合が多い
だが、機会を逃してしまえば、非常に困難なものとなる
…それが、思考の循環を破壊する要因の一つとなる
もちろん、少しだけなら問題ない
積み重なると例の批判的な言葉がでてくる
…今思うと、早く疑問を解決してくれという自分自身からの救難信号だったのかもしれない

積み重ねるが必要になるので時間は、かかってしまうができるはずだ
なぜならその苦しみは、日々積み重ねることができないと存在しないもの
…すでに証明できているのだ
それは、積み重ねることができる証明の一つだ

初めてSNSをやってみた感想

初めてSNSのアカウントを作ってみた
正直なところ、気になる
だから精神的に良くないと感じる
そして発信と探索をしないと繋がりは、ないだろう
…めんどくさい

精神的に疲れる思う要素の一部
比較
意識する
やらないといけないという概念
これを見事に達成すると感じた

まだ慣れていないからというのもあるだろうか
だとすると意識するということは、克服できそうだ
概念に対しては、そもそもの目的を見失わないようにすれば対処できるだろう
比較は、比較することで起こる不幸を意識していれば取り込まれないはず
…良いことあるのだろうか?

良いと思えた要素は、フォローした対象が発信した情報を見ることが可能なこと
…今のところあんまりないな
まあ、数時間だけだからわかることのほうが少ないか
SNSをやらない理由、やめる理由が少しわかっただけでも収穫か

実際に行動してみたらすぐに自分にとってどうだったのかがわかる
人によって同じ事象でも感じることは、違う
だから自分にとってどうなのかを知るためには、行動がするのが一番時間をかけずに済むと実感した
…事前に起こりうる危険性だけは、事前に考えておこう
逆に言ってしまえば、経験を得るために行動する前準備としては、危険を考えるだけで良いのかもしれない
良いと思えることは、本当に実際に試してみないと自分にとってどうか分からないと改めて実感した

 

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比較は、情報の完成度を高めるための行動だとする
同じような対象を元に比較を行う
それでは完成とはどの状態を示すだろうか
既にある良いとされるものだろうか?
たしかにそれも指標の一つ
だが個人に限ればどうだろうか
人は、持っているものが違う
良いものも悪いものも意識も
人との比較による完成は、なんだろうか?
…私が思うことは、私の完成は、私にしか決められない
だから、自分自身で決められると言える
他者は、確実に自身ではない
なので他者の言葉を正常に他者の言葉であると認識することができる

個人においては、比較は、自分が持っていた想像(情報)と実際に存在するものを感じた(認識した)ことの比較して情報を正しく認識するためなの行為かもしれない
他者の言葉から得られることは、情報だけであり、実体験を得ることはできない
優れた発信者の言葉は、実体験を得たような感覚になるが、それは、想像なのだ
もし、その言葉の出来事を経験する機会があるのなら、その言葉ような感想が出てくるだろう
だが、実際に感じることは、その言葉にない感覚も得ることができる
それが、自分自身でしか得られない経験なのだ

ブログになにをかこう

何を書けばいいのだろうか
人に見せるものだから気が利いたことを書かないといけないのだろうか…?
しかしそれだと書くこと自体に負担がかかってしまう
私が文章を書く理由としては、自分が疑問に思ったことを日記として記入する
そして疑問に対して、自分なりの解決方法だったり分析だったりを記録する
…疑問に対する自分なりの対処を書いて整理することが目的だ

それだけならメモ帳に記入するだけで問題ないので、なぜ人の目に映る可能性があるブログを書こうかと思ったのか
理由は、自分の考えに対する反応がどんなものになるかの好奇心
誰かが心理的負担を軽減するための参考になればいいなという考え
自分以外の反応からの学習…やっぱり好奇心か
知りたいから行動に移したんだろう

とりあえずこんな感じで続けてみよう
これが自分にとって自然で一番楽だから
結果を得るには、時間がかかるから継続できることが重要だ
行動した分、考え続けるよりも早く知ることができる